![]() 梅林 2/15/2003 in Yokohama |
概要 TCRは梅原勲という一人の人が源泉となっているホームページです。TCRの意図は地球と人類の進化発展に少しでも貢献する事です。
TCRとは TCRは Truth, Center, Relationship の頭文字です。Truth は真理、 Centerは中心、Relationship は関係です。 "Truth"「真理」と "Center"「中心」は梅原勲が探求をしているときに出てくる言葉です。自分で探求したり、セミナーなどに入って探求しても、必ずこの二つの言葉が出てきます。「真の言葉」ないしは「自分である言葉」とも言われる言葉です。 "Relationship"「関係」はその後明確になった言葉です。わたしたちはいろいろな関係の中に生きています。まず第一に宇宙(自然)と人との関係、人と人との関係、そして心と身体の関係の中で生かされ、生きています。わたしたちは自分以外との「関係」の中で体験し、学んで行きます。 「TCR」という「タイトル」は梅原勲が生み出す世界を一番よく表現していると思われるので、採用しました。ホームページのURLが tc-r.com となっているのは、 tcr.comが既に他の人に登録されていて、使えなかったからです。 コーチ梅原勲 梅原勲の仕事はコーチです。企業や経営者に対してコーチする時は「経営コンサルタント」という名称になります。「自己表現」や「英語の音読」の時は「コーチ」という名称です。 コーチは先生とは違います。 コーチはプレーヤーが達成したいことが達成できるようにコーチするのが仕事です。そのために知識を提供したり、達成したい事が何かを明確にしたり、達成の道順を説明したり、達成に必要な事は全て行います。コーチはプレーヤーからの求めが無い限り仕事はできません。また、コーチとプレーヤーの関係は対等です。 先生は基本的に知識を教えます。生徒が求めているかどうかにかかわり無く、先生は教えているのが学校での現状です。先生と生徒は対等ではありません。採点を下す先生が生徒の上に来ています。 梅原勲は小さい時からコーチ役をしていました。小学校のときから友人達が困った事が起こると相談に来ていました。このことは会社勤めをしても同じでした。他の部署の人がよく相談に来ました。取引先や近隣の会社の知り合いからも相談を頻繁に受けていました。 梅原勲の背景 梅原勲は1948年に横浜の金沢八景の近くで生まれました。私は覚えていませんが、小さい時はよく潮干狩りに行ったそうです。3歳の時に東京の杉並区に移りました。高校は都立大泉高校です。卒業後米国のカリフォルニア州へ行き、9年間過ごしました。 大学はカリフォルニア州立大学サクラメント校を数学で卒業しました。大学入学当初は専攻は物理でした。しかし、物理を一生やる気になれず、哲学へ専攻を変えました。哲学を学ぶうちに、経済学に興味が移りました。経済学の理論が正しいかどうかを見極める場は歴史です。そのため歴史も結構学びました。大学にいる間、数学は趣味として自分の興味のある集合論の分野や興味のひかれる教授のクラスをとりつづけていました。経済学を学ぶうちに、学校の外に出て、実社会で体験したくなりました。そして成績表を取り寄せると、初等数学を2科目とるだけで卒業できる事がわかりました。そして数学で卒業しました。 浅くではありますが、基礎知識を広く学べたことはコンサルティングやコーチングではとても役に立っています。 大学を卒業してしばらくしてから、日本に戻ってきました。仕事は輸出専門の貿易商社に3年半、電子部品の製造メーカーに4年半、NGOに9ヶ月おりました。そして、コンサルタントとして独立して、今日に至っています。 NGOにいたときや独立してしばらくは通訳や翻訳を頻繁に行っておりました。これらはその後の仕事にとても役立っています。というのは、先入観をいれずに読んだり聞いたりできなければ、通訳も翻訳もできません。コンサルタントでも同じだからです。 梅原勲の趣味 第1の趣味は自然の法則を見出す事です。物理や化学などのいわゆる科学の法則だけではなく、人間や社会の法則を見つけだし、活用する事です。私が行うコンサルティングに即活用できるので、仕事との区別はなかなかつきません。 第2の趣味は瞑想です。小さい時から禅に興味があり、坐禅も自己流でやってきています。長い間生活の中に瞑想がありましたが、瞑想の中に生活を取り入れ様と心がけています。 第3の趣味は尺八です。2年ほど前の2000年の1月に急に尺八を吹きたくてたまらなくなりました。それまではほとんど見た事も聞いた事もありませんでしたので、とりあえず横浜駅の駅ビルにある和楽器店で練習用の木管の尺八を購入しました。先生について1年少々ですが、楽しんでいます。生活の中に尺八をとり入れるのではなく、尺八の中に生活を取り入れるようにしています。 ある特殊な体験 慢性硬膜下血腫 2000年6月19日に梅原勲は慢性硬膜下血腫を発症しました。5日後の6月23日に入院し、すぐに左右両脳側の手術をしました。そして11日後の7月4日に退院しました。 しかし、5日後の7月9日に再発しました。そして、12日後の7月21日に入院しました。今回は右脳側のみでした。そして12日後の8月2日に退院しました。 2度目の手術の後は注意しているせいか、順調に回復しています。8月末の時点で、脳は以前と変わらなくなってきています。 ところで、発症から入院まで最初は5日、2回目は12日かかっています。それは私が一人で住んでいたからです。その間2回とも食べ物も水も口にしませんでした。最初は6月19日から無意識でした。気がついたのは23日の病院のベッドの上でした。 2回目は意識はありました。しかし左半身がうまく動かず、起き上がることができませんでした。初めの数日はとても水を欲しました。しかしそのうちにのどの渇きを感じなくなりました。 極限の状態になると、大切なことが見えてくるといわれています。私の場合は(1)自分の犯した過去の過ちに関して、一つひとつ謝りました。(2)他の人のしたことを一つひとつ許しました。そして、(3)自分の犯した過ちを一つひとつ許しました。これが終わったとき、立ち上がってみようと言う気が起こりました。 夜が明け始めたころですので、午前4時頃だったと思います。立ち上がる努力を始めました。あお向けでは起き上がれないと気がつき、やっとの思いで身体をうつ伏せにしました。そして、這いつくばり、手で必死に支え、身体を持ち上げることができました。でも、脚には体重を支える力が無く、座り込んでしまいました。また、立ち上がるときに手に力を入れたため、手のひらはむけ、何かに当たったところは切れていました。皮膚や筋肉も衰弱していたためだと思います。午前1時を回っていました。20時間以上経ってやっと起き上がることができました。 退院した時点で体重は10Kg落ちていました。多分12日間の絶食の後では15Kgくらい落ちていたと思われます。 今思うと良く生きていたなと思います。死の一歩手前だと思いますが、自分ではそのように感じませんでした。ただし、左手の指の感覚はなくなっていました。必死でリハビリはやっていますが、一月経っても親指と小指の第一間接から先はほとんど感じません。多分凍傷のときのように、身体が左手を切り離す準備に入っていたのだと思われます。 一つ残念なことがあります。八月末の段階で、まだ尺八がふけないのです。指が充分に開かないので、穴をふさぐことができません。また、親指の感覚がほとんどないので、穴がふさがれているのかどうかが触感ではわかりません。 11月に入って、尺八の穴をふさげるようになりました。嬉しいことに指の感覚が少しずつ戻ってきています。8月始めに退院してから丸3ヶ月です。又初歩から練習を始めています。 |